藤田信吉(ふじた・のぶよし) 1559〜1616

上杉家臣。通称は弥六郎。重信とも名乗る。能登守。
はじめ北条氏に属して沼田城代だった。天正8年(1580)頃、真田家の矢沢頼綱の攻撃を受けて降伏し、武田勝頼に属すようになった。
武田家の滅亡後は上杉氏に属して越後国長島城主となり、天正12年(1584)には佐渡を制圧。天正18年(1590)の小田原征伐には松井田城を攻撃した。
慶長3年(1598)、主家の移封に伴い会津へ移り、大森城主となる。
慶長5年(1600)、不仲となった上杉家と徳川家の調停に奔走したが、失敗して剃髪、京都大徳寺へ入る。のちに関ヶ原の役が勃発。
戦後、徳川家康に仕えて下野国西方藩1万5千石の領主となったが、慶長20年(=元和元年:1615)の大坂夏の陣において榊原康勝の軍の指揮の失敗を責められて改易に処せられた。
翌元和2年(1616)7月14日、信濃国奈良井で没した。自殺ともいう。