石垣原(いしがきばる)の合戦

慶長5年(1600)の関ヶ原の役のとき、九州の諸大名らも東西どちらかの陣営に属して本州に主力部隊を派遣していたために、どこも防備が手薄であった。そこを狙って大友義統が旧領回復に動き出したのである。
大友勢は、まずは拠城を得るために8月12日より東軍勢力の細川忠興の支城・杵築城を攻めはじめた。それを知った豊前国中津城の黒田孝高はその救援に向かい、実相寺山に布陣。
黒田勢には豊後国府内城の竹中氏よりの援兵、大友勢には大友旧臣・田原親賢や宗像鎮続らが駆けつけ、黒田勢3千、大友勢5百となった。
9月13日、大友勢が石垣原に打って出たことから戦闘が始まった。大友勢は少数のうえに寄せ集めの軍勢であり、黒田勢も主力は子の長政につけて関ヶ原に出していたため、どちらもにわか集めの軍勢であったが、孝高の采配ぶりで大友軍を圧倒した。この合戦で大友方の吉弘統幸は討死、義統は降伏した。
孝高はこの勢いをもって九州を席捲したのちに中央へ打って出て、「第三勢力」として天下取りに乗り出そうと目論んでいたなどといわれるが、その直前に関ヶ原の合戦での東軍勝利の報告が届いたために断念したとされる逸話がある。
なお、田原親賢と宗像鎮続は岡城の中川秀成に仕えていたが、大友義統に合流する際に中川氏の馬印を盗み出し、それを陣中に掲げていたために中川氏は謀叛の嫌疑をかけられたという。この嫌疑は、石田三成に与していた臼杵城の太田一吉を討ち取ることで晴らした。