堀秀治(ほり・ひではる) 1576〜1606

堀秀政の長男。通称は久太郎。左衛門督・侍従・従五位下。
天正18年(1590)、父・秀政と共に小田原征伐に従軍。同年11月4日、秀政の死没を受けて越前国北ノ庄18万余石を継承した。
天正20年(=文禄元年:1592)の文禄の役においては肥前国名護屋に駐屯し、文禄3年(1594)に京都伏見城、大和国多聞山城の普請工事を務めている。
領主の活動としては先代の秀政の路線を継承し、慶長2年(1597)には用水の整備などを行っている。
慶長3年(1598)4月2日、北ノ庄領主時代からの与力大名である村上義明・溝口秀勝らと共に、上杉氏移封のあとを受けて越後国春日山45万石に転封。この所領のうち9万石は村上、6万石は溝口ら与力大名分である。また、入部後の7月より領内の総検地を行っていることが記録に残る。
慶長5年(1600)、関ヶ原の役では東軍に属し、上杉景勝に与する一揆を平定して所領を安堵された。
慶長11年(1606)5月26日死去。31歳。法名は賞泉寺殿存忠大居士。