堀直政(ほり・なおまさ) 1547〜1608

奥田直純の子。通称は三左衛門、または三右衛門。監物。
はじめ織田信長に仕え、直政の母が堀秀政の伯母という縁により秀政に属す。
永禄7年(1564)の美濃国斎藤氏攻め、天正3年(1575)5月の長篠の合戦において軍功を立てた。
天正10年(1582)の本能寺の変後は秀政と共に羽柴秀吉に従い、明智秀満を近江国坂本城に攻略した。
天正11年(1583)の賤ヶ岳の合戦、天正12年(1584)の小牧・長久手の合戦に従軍。
天正13年(1585)閏8月、秀政が越前国北ノ庄に移封すると直政もこれに従って移住。このとき、秀政より堀の姓を賜った。
天正18年(1590)の小田原征伐にも従軍し、この在陣中に秀政が没したが、直政が隊をまとめて戦った。のち、堀氏の家督は秀政の嫡男・秀治が継ぐが、直政は軍務・国政など多岐に亘って補佐して秀治を援けた。
朝鮮の役には肥前国名護屋に駐屯。
慶長3年(1598)、秀治が越後国春日山城に移封するとこれに従い沼垂郡5万石、三条城主となった。また、秀吉の直轄領である布産地の代官を命じられた。
秀吉の死後、遺物として国俊の刀を受領。
慶長5年(1600)の関ヶ原の役では、越後国で上杉景勝に与する一揆を鎮圧した。
慶長11年(1606)に秀治が没し、その子・忠俊が家督を相続したときにも補佐にあたる。
慶長13年(1608)2月26日死去。62歳。法名は千手院殿前城門郎傑山道英大居士。