堀忠俊(ほり・ただとし) 1596〜1621

越後国春日山城主・堀秀治の長子。幼名は吉五郎。通称は久太郎。従五位下・侍従・越後守。越後国福島城主。
慶長11年(1606)に父・秀治の死去を受けて11月11日に襲封が認められ、越後国45万石の領主となった。同時に徳川秀忠より姓と諱を与えられて松平忠俊と名乗る。
翌慶長12年(1607)、徳川家康の養女(実父は本多忠正)を妻に迎えた。またこの年、福島城を築いて春日山城から移った。
忠俊が病弱だったため家臣の堀直政が政務を執っており、直政が慶長13年(1608)に没するとその子・堀直次がその職務を引き継いで実権を握ったが、直次は庶兄の直寄と不仲となって対立した。直次に擁された忠俊は直寄を追放に処したが、これを不満とした直寄は徳川家康に訴えた。
慶長15年(1610)閏2月、直寄の訴えを容れた家康の命により直次は出羽国山形城主・最上義光に預けられ、忠俊もその責任を取るというかたちで改易に処され、陸奥国磐木の鳥居忠政に預けられた。
元和7年(1621)12月22日、配所で死去。26歳。法名は昌林院殿天叟実参大居士。