武田家臣。左衛門尉。出家して長閑斎と号す。甲斐国巨摩郡逸見筋長坂郷の領主。
武田信玄と武田勝頼の2代に亘って仕え、とくに勝頼に寵愛された。
出自は不詳であるが、天文11年(1542)9月の宮川の合戦で武功を挙げたのが初見とされ、信玄の代に騎馬40騎、足軽45人持の足軽大将を経て侍大将となる。
永禄8年(1565)の武田義信幽閉事件に嫡男の源五郎が連座したとされて誅殺されたためか、信玄の時代には重用されなかったが、次代の勝頼に重用され、急速に頭角を顕した。
天正3年(1575)5月に武田軍が徳川家康方の三河国長篠城を攻めた際、徳川方に織田信長の援軍が到着したことを受けて設けられた軍議において、撤退を主張する信玄時代からの重臣らに対し、跡部勝資とともに勝頼に進撃を勧め、結果として大敗することとなったが(長篠の合戦)、この敗戦によって重臣の多くが戦死したのちに一層重く用いられるようになった。
『甲陽軍鑑』では跡部勝資とともに強欲な人物とされ、天正6年(1578)の御館の乱において、莫大な賄賂を受けて上杉景勝への支援を勧めたとあるが、実際に勝頼と景勝の同盟成立に尽力したのは武田信豊らであり、光堅の関与は認められないことから、脚色と思われる。同盟成立に際して金銭を受け取ったのは事実と見られるが、これは「賄賂」ではなく、破格ではあったが「礼銭」の範疇に含まれるものであろう。
天正10年(1582)2月からの武田征伐に際し、勝頼の都留郡(郡内)落ちまでは側にあったようだが、小山田信茂の離反が明らかとなると逃亡し、3月の武田氏の滅亡後に織田信長に誅殺されたという。