武田信豊(たけだ・のぶとよ) 1549?〜1582

武田信繁の嫡男。武田信玄の甥にあたる。武田勝頼の従兄弟。幼名は長老。通称は六郎次郎。左馬助・相模守。妻は小幡憲重の娘。
父と同じく左馬助を称したので、典厩または後典厩とも呼ばれた。永禄4年(1561)の川中島の合戦(第4回)で父・信繁の戦死を受け、その手勢を受け継いだ。父譲りの軍将といわれ、信玄・勝頼に従って諸戦に活躍し、武田氏が大敗を喫した天正3年(1575)5月の長篠の合戦でも勝頼を守って生き延びた。敗戦後には信濃国伊那郡高遠城に入り、伊那郡の防備にあたった。
天正6年(1578)に勃発した越後国上杉氏の分裂抗争(御館の乱)に際し、同年5月には先遣隊として信濃国に出陣し、海津城の高坂昌信と合流して越後国侵攻に備えたが、間もなく上杉景勝から勝頼との和睦を打診されるとその意向を取り次ぎ、その締結に尽力した。
天正10年(1582)1月末に親族衆の木曾義昌が武田氏から離反して織田氏に内通したことが明らかとなると、これを追討するために勝頼らとともに出陣したが、鳥居峠を抜くことができなかった。
同年3月、織田軍の侵攻を受けた勝頼が小山田信茂領の郡内に撤退することを決めた際、戦備を調えて織田軍の挟撃を期すため、勝頼と別れて信濃国佐久郡小諸城に向かったが、小諸城代の下曾根氏の裏切りに遭い、城内で下曾根勢と戦ったが敗れて自刃した。享年34という。