はじめ山内上杉氏、のちに甲斐国武田氏の家臣。別称を信定(信貞)。尾張守。妻は長野業政の娘。信龍斎全賢と号す。上野国甘楽郡小幡郷の領主。
はじめ上野国甘楽郡国峰城主として関東管領・上杉憲政に仕えていたが、天文21年(1552)1月に憲政が北条氏康によって居城の上野国平井城を逐われると、これに連動して起こった同族(弟か)の小幡景純(景定)との分裂抗争に敗れて所領を逐われた。
この抗争は、一説には小幡家中が上杉派と北条派の両派に割れ、上杉派の憲重が北条派の景純によって追放されたともされるが、その実は憲政が上野国を去ったあとに一大防衛網を築こうと画策した上野国箕輪城主・長野業政が憲重の軍事力を危惧し、憲重よりも小身で御しやすい景純と結んで憲重を追放した、というのが事実に近いようである。
その後の天文22年(1553)9月に甲斐国の武田信玄に帰属し、永禄4年(1561)より始まる武田氏の上野国西部への侵攻には調略などにおいて貢献し、同年11月に信玄が国峰城を陥落させると城主として復帰し、西上野衆として500騎持となった。
天正3年(1575)5月の長篠の合戦で討死したとする史書もあるが、天正10年(1582)の武田氏滅亡後は北条氏に、天正18年(1590)の北条氏滅亡後には徳川氏に仕え、天正20年(=文禄元年:1592)11月に信濃国で没したとみられる。