宮川(みやがわ)の合戦

信濃国諏訪郡を支配する諏訪氏の内訌を寄貨と見た甲斐国の武田信玄は、これに介入し、諏訪氏惣領の諏訪頼重と対立していた高遠頼継らと結び、天文11年(1542)7月に諏訪頼重・頼高兄弟を滅ぼした(桑原城の戦い)。
その後、協定によって諏訪領は宮川を境として東側を武田氏が、西側を高遠頼継が領有することになったが、これに不満を抱いた頼継は諏訪氏旧領の全域支配を目論み、先の抗争においても反惣領方であった上社禰宜の矢島満清と結託し、さらには有賀城主の有賀氏、福与(箕輪)城主の藤沢氏らをも味方に加え、9月10日には諏訪氏の旧本城で武田氏が抑えていた上原城を攻め落とし、ついで下社をも占拠し、諏訪領全域の支配に乗り出したのである。
翌11日にこの報を受けた信玄は、直ちに板垣信方に命じて諏訪へと向かわせ、自らは19日に頼重の遺児で生後6ヶ月の寅王を奉じ、自身はその後見人との体裁で出陣し、若神子を経て諏訪郡へと入り、堺川に着陣した。寅王を諏訪氏の正嫡と認める諏訪氏旧臣は武田方に応じ、頼重の叔父・諏訪満隆らは高島城に籠って高遠方に抵抗した。
そして9月25日未刻(午後2時頃)、安国寺前の宮川近辺で両軍は激突し、酉刻(午後6時頃)に武田方の大勝で決着がついた。武田方では長坂光堅や栗原左衛門が高名を挙げ、敗れた高遠方は頼継の弟・蓮芳ら7百余人が討ち取られたといい、杖突峠を越えて高遠領へと敗走した。
武田方はこれを追撃して伊那郡へ入り、26日には駒井政武(高白斎)が福与城主の藤沢頼親を攻め、28日に降伏させている。
こうして諏訪郡は全域が武田領として確保されることとなったのである。

この後、信玄は板垣信方に命じて諏訪領の掌握を進め、信方はしばらく諏訪に駐留していたようであるが、翌天文12年(1543)4月には甲府に召還されて信玄より諏訪郡代に任じられた。同年5月下旬より上原城の修築工事が始められているが、信方は6月に改めて着任しており、これより武田氏の分国として本格的な施政体制が築かれていくのである。