長尾顕長(ながお・あきなが) ?〜1621

上野国の国人領主。上野国新田金山城主・由良成繁の子。由良国繁の実弟。通称は新五郎。但馬守。上野国館林城主。
足利長尾氏・長尾当長の娘婿となって入嗣し、その家督と上野国館林や下野国足利などの所領を相続した。
足利長尾氏の所領は上杉氏と北条氏の勢力圏の狭間であったため、しばしばこの両勢力の抗争に巻き込まれて従属先の変転を余儀なくされたが、永禄年間の後期頃には北条方の勢力として定着している。
天正11年(1583)11月下旬より兄の由良国繁と共に反北条の佐竹義重宇都宮国綱・佐野宗綱らに応じて北条氏直方の上野国小泉城を攻めており、これが沼尻の合戦の発端となった。
その後も断続的に小泉城を攻め、天正12年(1584)7月には北条方の拠点・上野国巨海を攻めるなど反北条勢力として遊撃したが、この直後に佐竹・宇都宮方と北条氏が和議を結んで沼尻での戦線が落着すると北条方より報復攻撃を受ける破目になり、同年末に開城して館林城を接収され、足利城に移された。
こののち、北条氏直の命を受けて所領が隣接する佐野宗綱と交戦し、天正13年(1585)1月の彦間の合戦で宗綱を討っている。しかし天正16年(1588)頃より再び北条氏と不和になり、同年8月には北条氏照氏邦らによる足利侵攻を受けた。天正17年(1589)早々にも北条勢に攻められており、同年3月頃に降って所領を没収され、以後は北条氏の本拠である相模国小田原に出仕したとみられる。
天正18年(1590)の小田原征伐には小田原に在って防戦に努めたが、北条氏の敗戦によって常陸国の佐竹義宣に預けられたが、その後に流浪の身となった。
元和7年(1621)5月8日死去。法名は関英宗鉄。