北条氏盛(ほうじょう・うじもり) 1577〜1608

北条氏規の嫡男。母は北条綱成の娘。通称は助五郎。美濃守。
天正18年(1590)の小田原征伐による小田原開城後は、父・氏規と親交のあった徳川家康に召し出された。天正19年(1591)の九戸政実の乱においても家康に従っている。
同年11月、北条氏嫡流の北条氏直が病没したのちに羽柴秀吉から氏直遺領の一部である下野国足利にて4千石の所領を宛がわれ、父と同様に豊臣大名として北条の家名を再興した。
文禄の役においては肥前国名護屋に在陣。
慶長5年(1600)2月に父・氏規が没すると、その遺領の7千石を徳川家康ら豊臣大老から安堵されて受け継ぎ、合わせて1万1千石を領有した。
同年の関ヶ原の役に際しては東軍に属して従軍し、本領を安堵された。
慶長13年(1608)5月18日死去。32歳。
この氏盛の得た所領が江戸時代を通じて維持されることとなり、氏盛を狭山藩初代藩主と数える。氏盛の子・氏信のとき、その中の狭山地域の池尻村に陣屋が建てられた。