手這坂(てはいざか)の合戦

常陸国太田城主・佐竹義重は常陸国南部への進出を企図していたが、しだいに常陸国小田城主・小田氏治との対立が激化することになった。義重は永禄9年(1566)に奪取した常陸国片野城・柿岡城を、客将として迎えていた太田資正梶原政景父子に与え、ここを拠点として徐々に氏治への圧迫を始めたのである。
永禄12年(1569)1月、佐竹勢は小田方の海老島城を降したのちに氏治の拠る小田城を包囲すると、小田領内の村々に放火し、百姓の家に押し入って家財を強奪するなどの狼藉を行った。また5月にも小田城下に侵攻して刈田を行うなど、小田氏の対戦能力や国力を低下させるための示威行動を行っている。

10月24日、氏治はそうした状況を打破するために3千の軍勢を率いて筑波山東麓の手這坂に布陣し、片野・柿岡の両城を攻める構えを見せた。これを6百という寡兵で受ける太田勢は、城を棄ててでも小田城を落とすという覚悟を決め、真壁城の真壁氏幹らと連携を取りつつ、手這坂の小田勢を迎撃したのである。
太田勢は30挺ほどの鉄砲で撃ちかけた。この地方で鉄砲を用いるのはこの合戦が初めてといわれており、この新兵器の威力に怖気づく小田勢に真壁勢が斬りこんだため、小田勢は崩れて敗走した。
しかも、この間に別働隊を率いて密かに小田城に向かった梶原政景が「御館御帰陣」と偽って城門を開かせて攻略したため小田勢は小田城に帰れず、支城である常陸国土浦城に逃れたのである。