関宿(せきやど)城の戦い:その2

下総国関宿城主の簗田氏は関東公方(のち鎌倉公方、古河公方と称される)の足利氏に仕え、とくに古河公方の時代に家宰として揮ったが、相模国の北条氏康が古河公方・足利義氏の推戴母体としての威勢を高めるとともに不仲になっていき、永禄3年(1560)の上杉謙信の関東出兵(越山:その1)を機に、時の簗田氏当主・簗田晴助は北条氏と決裂するに至った。
その後しばらくは北条氏との抗争はなかったが、永禄8年(1565)3月に至って攻撃を受けるところとなるも、北条氏を取り巻く情勢のためか、大きな打撃を受けることなく落城を免れたのである(関宿城の戦い:その1)。

謙信による関東出兵は、初めのうちこそ北条氏の牽制に効果を上げていたが、永禄9年(1566)3月に北条勢力の下総国臼井城を攻めて大敗を喫した(越山:その5)のちは謙信を見限って北条氏に従属する勢力が増えていくようになり、簗田氏も間もなく北条氏との交渉を始めたようで、簗田氏が関宿・水海・森屋(守谷)城を領有すること、古河城は足利義氏に進上することなどを条件として永禄10年(1567)4月に従属した。
しかしこの和議は長く続かなかった。詳細は不詳であるが、何らかの違約(森屋城に関することか)があったのであろう、簗田氏は永禄11年(1568)8月までには北条氏から離反したため、その本貫地である関宿城は北条勢より圧迫を受けることとなったのである。
8月に入ると北条氏政は下総国小金の高城氏や武蔵国の軍勢を簗田領に向けて発向させ、23日には自ら下総国の下幸島に進軍、これら北条勢は28日には塚崎郷を攻撃したが、在城衆から迎撃を受けて制圧は成らなかった。さらに北条氏は9月23日には野田景範が居城としていた栗橋城を接収して関宿城攻めの拠点と定め、10月17日には山王山と不動山に付城を築き、包囲態勢を築いている。また、この頃より関宿城攻めの指揮は氏政の弟・北条氏照に委ねられたようである。
しかし同年12月、北条氏・今川氏と相互に同盟(甲駿相三国同盟)を結んでいた武田氏が今川氏と断交して今川領へ出兵するに及び(武田信玄の駿河国侵攻戦:その1)、北条氏は今川氏との同盟を堅持して武田氏と敵対することとなった。
今川氏当主・今川氏真は武田氏との手切れを想定して前年末頃より上杉氏と誼を通じており、そうした経緯から12月半ばより北条氏も上杉氏との関係改善に方針を転換し、12月19日には氏照が独自に上杉氏に和睦を申し入れている。
この北条氏から上杉氏への和睦交渉期間において北条勢は上杉勢への攻撃を控えていたとみられ、関宿城戦線も休戦状態になったと思われる。しかし上杉氏と北条氏が和睦する方向で一致したのちの永禄12年(1569)5月7日に氏照が山王山城からの撤退と同城の破却を承諾したとの記録が見られることから、それまでは軍勢を駐留させて戦闘再開の構えを崩していなかったことがうかがわれる。
そして閏5月4日には山王山城が破却されたことで名実ともに関宿城への攻撃は終結し、6月には上杉氏と北条氏の同盟(越相同盟)が正式に結ばれたのである。