関宿(せきやど)城の戦い:その1

下総国の関宿城の城主は古河公方譜代の重臣・簗田氏であった。簗田成助が長禄元年(1457)に築いたと伝わる。
時代が下って簗田高助は娘を第4代の古河公方・足利晴氏に嫁がせ、そのあいだに生まれた長男の足利藤氏が嫡子とされていたが、天文21年(1552)12月、古河公方への圧迫を強めていた北条氏康の妹(芳春院)と晴氏のあいだに生まれていた足利義氏が家督を継ぐことが決まって藤氏は廃嫡され、さらには永禄元年(1558)4月、古河公方代々の居城であった下総国古河城と、簗田氏の本城である関宿城を交換するということが取り決められた。関宿の地は、利根川水系に臨んで水陸の流通・交通を抑える要衝であり、その軍事的・経済的価値は一国にも匹敵するとも称されたほどであった。氏康は関宿を義氏の御座所にするためとして提供を迫り、その替地として古河城ならびにその周辺で相当の知行地を宛行うことを約束しているが、簗田氏を地盤から切り離して弱体化を図ったであろうことは明白である。
こうしたことから、簗田氏の北条氏に対する不信感は高まっていったのである。
永禄3年(1560)の秋、前関東管領・上杉憲政をはじめとする北条氏の圧迫を被る諸領主の要請を受け、越後国の上杉謙信が関東に出兵した(越山:その1)。その目的は北条氏を討伐して関東を静穏たらしめることであったが、高助のあとを継いでいた簗田晴助はこれに応じて北条氏と決別。義氏の居城となっていた関宿城は、謙信帰国後の永禄4年(1561)7月に義氏が脱出したことによって簗田氏が掌握するところとなったようである。

その後も謙信がたびたび越山していたためか、関宿城は北条氏からの攻撃を免れていたようだが、その間にも北条氏の威勢は関東に浸透していき、それとは逆に謙信の越山は回を重ねるごとに勢力範囲は狭められていき、永禄8年(1565)3月に至って関宿城も攻撃を受けることとなった。
3月2日には北条勢先陣の太田氏資が宿中まで攻め入ったが、翌日に後退。6日(あるいは9日)に北条氏康・氏政父子の率いる軍勢が大井川(現在の江戸川)沿いの親井まで進軍したが、大きな戦果なく5月24日に退陣したため、関宿城は事なきを得たのである。
この間、北条氏には将軍・足利義輝から上杉謙信との和睦を要請する使者が滞在しており、その間は戦闘を控えていたとみられること、5月頃には謙信が関東に出陣しようとする動きがあったこと、それに応じてのことか5月初旬には太田資正が岩付城の乗っ取りを謀ったことなどが北条勢撤退の理由であろうか。