三木良頼(みつき・よしより) ?〜1572

飛騨国の戦国大名。三木直頼の子。別称を嗣頼(つぐより)。右兵衛尉・飛騨守・参議。
三木氏は京極氏の被官から身を起こし、良頼の父・直頼の時代には飛騨国南域から中域にかけて勢力圏を築き、その威勢は飛騨国随一であった。
良頼の家督継承の時期は不詳であるが、直頼の没する前年の天文22年(1553)には円通寺仏殿を再建しており、この頃には家督に准じる地位にあったと思われる。
初室は江馬氏(時経か)の娘であるが、天文9年(1540)1月に死別し、のちに継室として姉小路氏の一家・向氏の娘を娶った。
天文15年(1546)11月、湯治のために上洛したおりに(本願寺)証如を訪問している。
関白・近衛前久(別称を前嗣)の仲介を得て弘治4年(=永禄元年:1558)1月に従五位下・飛騨守に叙位・任官。永禄2年(1559)10月には子・光頼(のちの自綱)が飛騨国司を世襲する姉小路氏の一家と認められ、永禄3年(1560)には従四位下に叙されて姉小路氏の一家である古河の家名を名乗ることが許された。
永禄5年(1562)2月には従三位に昇って公卿へと成り上がる。このとき、近衛前久の前名・前嗣の一字を受けて嗣頼と改名している。
同年12月には中納言への任官をも望み、これは成らなかったが、翌永禄6年(1563)に自綱が侍従に任じられたことを機に、良頼・自綱父子は姉小路中納言・姉小路宰相と称されるようになった。
この近衛前久を通じて越後国の上杉謙信と交誼を通じたとみられ、永禄7年(1564)7月に甲斐国の武田信玄が飛騨国に侵攻した際、謙信は越中国の上杉勢に飛騨国への支援を命じるとともに、自らも北信濃に出陣して武田勢を牽制した(川中島の合戦:第5回)。また、元亀年間頃には謙信より越中国への出陣を要請されたりもしている。
元亀3年(1572)11月12日没す。