上杉定昌(うえすぎ・さだまさ) 1453〜1488

越後守護・上杉房定の長子。上杉顕定房能の兄。民部大輔。
弟で山内上杉氏の嗣子となっていた上杉顕定が扇谷上杉定正と反目するようになると、山内上杉方の援軍として関東に出陣。定昌は長享元年(1487)11月に上杉定正方の下野国勧農城を攻めているが、これが山内・扇谷の両上杉氏の武力抗争(長享の乱)の口火を切ることになった。
しかし、その翌年の長享2年(1488)3月24日、上野国白井城で唐突に自刃した。享年36。法名は安養院殿瑞室賀公禅定門。その人物については『無双、仁慈博愛の武士』との評価がある。
自刃の理由は不詳であるが、越後守護代の長尾能景が次期家督(房定の後継者)に房能を擁立し、その抗争に敗れたため、とする見解がある。
父・房定と同様に文芸に通じ、戦乱を避けて京から下向した文化人を厚くもてなした。このため、定昌の死を悼んで宗祇・飛鳥井雅康・飛鳥井雅俊らの定昌と親交のあった歌人・文化人たちが供養として追善悼歌を寄せている。