大永4年(1524)に武蔵国江戸城を落として扇谷上杉朝興を逐った北条氏綱は武蔵国での版図を更に広げるべく、岩付城(別称:白鶴城)の攻略に取り掛かった。
岩付城は江戸城と共に扇谷上杉氏の重要な拠点であり、扇谷上杉家臣・太田資頼(道可)が城を守っていたが、氏綱はその資頼の家臣・渋江三郎に内応を得ることに成功した。
大永5年(1525)2月4日に氏綱は軍勢を率いて江戸城を発し、6日の早朝に布陣した。岩付城は堅城であったが、渋江三郎によって城門が開かれたため、北条勢はやすやすと城内に入り込み、ついに陥落させたのである。
この戦いでは3千余人が討死したといわれるが、資頼は主君・朝興や山内上杉憲房の応援にも関わらず、城を捨てて逃げた。が、この資頼は享禄3年(4年9月とも)(1530)にこの岩付城を奪回することに成功している。