武田信縄(たけだ・のぶつな) 1471?〜1507

甲斐国の守護大名。武田信昌の嫡男。母は穴山氏の女(穴山信介の娘とも、穴山信懸の娘ともいわれる)。通称は五郎。従四位下・左京大夫・陸奥守。
延徳4年(=明応元年:1492)頃、父・信昌の隠居により家督を相続したが、弟の油川信恵がこれを不服として挙兵、同年7月には甲斐国八代郡の市川で合戦となった(市川の合戦)。
この兄弟の抗争には隠居した信昌が信恵方として介入していることから、信昌は寵愛していた信恵に家督を譲ろうとしていたが、信縄あるいは信縄を擁立する勢力によって隠居させられたとする見解もある。
いずれにしても信縄は信恵の反抗を受けて戦い、明応2年(1493)まではたびたび敗戦を喫して劣勢であったが、明応3年(1494)3月の合戦で大勝したことから形勢を逆転させた。その後、両者の対戦の記録は見られなくなるが対立は続いており、和睦に至ったのは甲斐国が大地震と大暴風雨に曝されたという明応7年(1498)のことであった。
永正2年(1505)9月に信昌が死去して信縄の優位は動かぬものとなったが、信縄は生来病弱であったらしく、父の没後わずか1年5ヶ月、永正4年(1507)2月14日に病没した。一説に享年37。法号は長興院殿浮山邦公大禅定門。