武田信昌(たけだ・のぶまさ) 1447〜1505

甲斐国の守護大名。武田信守の子。通称は五郎。従五位下・刑部大輔。
享徳4年(=康正元年:1455)5月に父・信守が死没したため、9歳で武田氏家督と甲斐守護職を相続した。
しかし信昌が未だ若年であったため、その生前より国政を掌握していた守護代の跡部明海・景家父子の専横はますます強まり、それに反発する岩崎・栗原・吉田の武田一族とそれに連なる国人層は信昌を擁して跡部氏に対抗した。この守護方と守護代方の抗争は概して守護代方が優勢であったが、寛正5年(1464)の早春に跡部明海が没すると、信濃国諏訪氏の援助を得て寛正6年(1465)7月に跡部景家を討ち、ようやく国政の実権を取り戻した。同年12月には8代将軍・足利義政から古河公方の足利成氏を討つよう命じられている。
翌文正元年(1466)頃より信濃国の軍勢が甲斐国に侵入したり小反乱が散発したが、信昌はこうした戦乱を排除しつつ国政を取り仕切ったと思われるが、同年3月以降は甲斐守護としての活動が史料では見えなくなる。
明応元年(1492)頃に家督を長男の武田信縄に譲って隠居して落合に居したが、この年6月に信縄とその弟・油川信恵による家督をめぐる抗争が勃発し、信昌はこの抗争に信恵方として介入していることから、先の隠居も自発的なものではなく、信縄あるいは信縄を擁立する勢力に押し切られてのことであったという可能性もある。
この抗争は被官層や隣国の今川氏・諏訪氏をも巻き込んで国内を二分する内乱に拡大したが、明応3年(1494)3月頃に信縄優位の大勢で決し、明応7年(1498)に和睦した。この抗争の主体は信縄と信恵ではあったが、『勝山記』には「信昌・信縄父子が和睦」と記されている。
永正2年(1505)9月16日に没した。享年59。