油川信恵(あぶらかわ・のぶよし) ?〜1508

甲斐守護・武田信昌の二男。母は小山田信長の娘。武田信縄の弟。通称は彦八郎。甲斐国山梨郡油川に住した。連阿と号す。
延徳4年(=明応元年:1492)6月、弟の岩手縄美や郡内(甲斐国都留郡)領主の小山田氏の支援を受けて兄・信縄と抗争に及ぶ。これは信昌が信縄に家督を譲ったことを不服としてのこととされ、経緯は不詳ながらも信縄に家督を譲ったとされる信昌も信恵に味方したこともあって、この抗争は信恵の単なる反抗に留まらず、国内を二分する内乱にまで発展することとなった。
同年7月の会戦を皮切りに翌明応2年(1493)4月に塩後原で、11月には小松で戦うなど抗争は断続的に継続され、当初は信恵方が優勢であったが、明応3年(1494)3月の合戦で大敗を喫したことから形勢は劣勢に傾き、明応7年(1498)に至って和睦し、これ以降に八代郡勝山城に移ったようである。
しかし永正4年(1507)2月に信縄が病死し、家督を信縄嫡男の武田信虎が相続したことを契機として小山田弥太郎(信隆か)や岩手縄美、栗原昌種や河村・工藤・上条・加藤ら諸氏と結んで再び叛乱に及んだが、翌永正5年(1508)10月4日に坊ヶ峯での合戦で敗れ、縄美や子の弥九郎や珍宝丸らとともに敗死した。
信恵の子とされる信守の娘が信虎の子・武田信玄の側室となり、五男の仁科盛信と五女の菊姫(大儀院、上杉景勝室)と六女の松姫(信松尼)を生んでいる。