仁科盛信(にしな・もりのぶ) 1557?〜1582

武田信玄の五男。母は油川信守の女で、側室の油川夫人といわれた女性。幼名は五郎。晴清とも称す。薩摩守。信濃国伊那郡高遠城主。
永禄4年(1561)、信濃国安曇郡の仁科氏が謀叛の罪で信玄によって誅されて断絶となったが、信玄はこの盛信をもって仁科氏の名跡を再興させた。この盛信も、信玄に対する信繁と同様に、兄の勝頼をよく助けて活躍した。
天正9年(1581)、勝頼は織田軍の侵攻に備えて伊那谷の防備を固めるため、高遠城に盛信を、その副将に小山田昌行を配置した。翌年3月2日、高遠城の攻防戦織田信忠軍と激戦を展開したが、盛信以下全員討死という壮烈な落城を迎えるに至った。26歳と伝えられる。