問田弘胤(といだ・ひろたね) ?〜1511

大内氏の重臣。問田弘綱の子。通称は十郎。掃部頭・大蔵少輔。
問田氏は周防国吉敷郡問田を本貫とする大内氏庶流で、代々が大内氏の氏寺である興隆寺の奉行を務め、石見国の守護代や同国邇摩郡代の任にもあり、重臣として大内氏の領国経営にも参画した。
長享元年(1487)、室町幕府9代将軍・足利義尚が近江国の六角高頼討伐(鈎の陣)を企図した際、主君・大内政弘の名代として参陣した。
政弘の没後はその嫡男・大内義興に仕え、永正5年(1508)に義興はかつて将軍であった足利義稙を奉じて上洛し、当時の将軍であった足利義澄を逐って義稙を復位させるとともに自らは管領代として山城守護を兼任したが、弘胤もこの上洛に随行しており、在京中は山城国の葛野郡代に起用されている。しかし永正8年(1511)8月、船岡山の合戦で細川政賢の兵と戦って討死した。
学者・歌人として著名だった三条西実隆と親交があり、弘胤の討死を聞いた実隆は、子の問田興之に哀悼の和歌を贈ったという。