天文24年(=弘治元年:1555)10月に陶晴賢を、弘治3年(1557)4月に大内義長を討って大内氏旧領の周防・長門の両国を版図に加え、山陽地方の大半をその支配下に置いた安芸国の毛利元就は、出雲国を本拠とする山陰の雄・尼子氏を次の標的に定めた。
大内氏の滅亡後、元就は莫大な収入をもたらす大森銀山を擁す石見国の覇権をめぐって尼子氏と干戈を交えていたが、永禄5年(1562)6月に尼子家臣・本城常光を従えたことで石見国経略をほぼ完了し、同年7月初旬には子の毛利隆元・吉川元春・小早川隆景以下、各分国より集めた1万5千の軍勢を率いて出雲国への侵攻を開始した。
この出陣と前後して、それまで尼子氏に従っていた出雲国の国人領主らもことごとく元就の威風になびくところとなり、毛利勢は7月28日には出雲国西域の赤穴まで悠々と軍勢を進め、先陣を宍道湖南岸の来待にまで進めた。しかし、9月になると豊後国の大友宗麟が豊前国の毛利領・刈田松山城を攻撃して牽制する動きを見せたため、毛利隆元を派遣して九州戦線の対処にあたらせることとし、また11月5日、元就は吉川元春に命じて先に従属した本城常光を謀殺している。この理由は大森銀山を確実に手中に収めるためとも、常光が不遜であったためともいわれて判然としないが、いずれにしてもこの本城常光の誅伐後、白鹿城の松田誠保や熊野城の熊野久忠らのように再び尼子氏に帰順する者も現れた。
これらのことを受けて元就は進撃を止めて赤穴にまで軍勢を返し、とくに出雲国の国人領主らの動静を窺ったが、赤穴城(別称:瀬戸山城)の赤穴久清、三刀屋城の三刀屋久祐、三沢城の三沢為清、高瀬城の米原綱寛ら出雲国西半の領主らが毛利陣営に留まったため12月10日には再び赤穴を発し、宍道湖東北岸の洗合(洗骸・荒隈)に陣城を築いて月山富田城攻めの拠点とし、持久戦に備えたのである。
尼子氏当主・尼子義久の拠る月山富田城は尼子十旗と称される支城群との連絡によって鉄壁の防衛網を誇り、さらには堅固な要害に守られた難攻不落の城と謳われていた。しかし十旗を構成していた三沢・三刀屋・赤穴・高瀬の諸城が毛利方となったためにその防衛力は半減していたが、さらに元就は十旗でも随一の城である白鹿城の攻落を企図し、宍道湖と中海の中間に位置する和久羅山(羽倉山)にも支城を築いて制海権を握り、白鹿城と月山富田城の連携を扼したのである。
またこの頃、尼子方でも毛利勢の補給線を断つべく熊野西阿らの軍勢が三刀屋付近へと進撃したが、毛利方・三刀屋久扶によって打ち破られている。
一方の九州戦線においては、将軍・足利義輝の介入もあって永禄6年(1563)3月頃には和談が成立する見通しとなったが、その後も調整が続けられており、この任にあたっていた隆元の帰着を待って白鹿城攻めを行うこととなった。
ところが、洗合へ帰着目前の隆元が8月4日の未明に急死するという事態が起こる。元就は悲嘆に暮れたが、その悼みをも力として13日より白鹿城攻めを敢行、10月末に至って陥落させたのである(白鹿城の戦い)。
この後、尼子勢は因幡・但馬国方面から海路にて月山富田城への兵糧搬入を試みているが、11月15日に毛利水軍によって撃退され、糧道を断たれることとなった(弓ヶ浜の合戦)。
月山富田城の防衛網を崩し、主要な糧道も断ったうえで包囲網を作り上げて戦況を優位に運んでいた元就は、洗合の本陣に腰を据えて持久戦に徹したまま永禄7年(1564)を過ごした。
明けて永禄8年(1565)、2月に元服を済ませた嫡孫・毛利輝元が毛利本陣に参着する。4月になると本陣を月山富田城の西北1里余の星上山に移し、月山富田城への本格的な攻撃を開始した。4月17日の合戦では、毛利勢が全軍を3つに分け、御小守口・塩谷口・菅谷口の三方より攻撃。これに対し尼子勢は総帥である尼子義久自らが5千余の兵を率いて御子守口に備え、尼子倫久・山中幸盛は3千で塩谷口、尼子秀久も3千の兵を従えて菅谷口の防御にあたった。毛利勢の陣立ては、御子守口が元就、塩谷口の大将は吉川元春、菅谷口が小早川隆景である。
この三方面ともに激しい攻防戦が展開されたが、寡兵ながらも尼子勢がよく防いだ。元就も深追いはせず、28日には再び包囲持久戦の態勢を整えて洗合に兵を退いたのである。その一方で支城の各個撃破を進め、8月6日には蜂塚右衛門尉の守る伯耆国日野郡江尾(江美)城を備後国神辺城主・杉原盛重が、9月3日には吉田源四郎の籠もる日野郡大江城を備中国成羽城主・三村家親が落としたことで糧道は完全に断たれ、月山富田城は完全に孤立した。
このため月山富田城内では飢餓に悩まされて士気が阻喪し、重臣の牛尾幸清・亀井秀綱・佐世清宗・湯惟宗らが下城。そんな陰鬱な空気の中、家中をよく支えていた尼子氏の筆頭家老・宇山久兼が永禄9年(1566)元旦に内訌のために討たれるという事態まで起こり、落城はもはや時間の問題であった。この年の春、陣中にあった元就が大病に罹って2月半ば頃には危篤状態にまで陥っていたが、京都から呼んだ医師・曲直瀬道三の加療を得て3月末頃には回復したことにより、尼子方は一縷の望みさえ潰えてしまったのである。
そしてついに11月21日に至り、義久は元就に降伏を申し出た。元就は義久および弟の倫久・秀久ともに生命を保証し、安芸国に引き取ることとした。11月28日に月山富田城は開城、元就は福原貞俊・口羽通良を入れ置き、永禄10年(1567)2月19日に安芸国吉田に凱旋帰国したのである。
この戦いによって戦国大名としての尼子氏は滅亡した。かつて中国地方一の太守であったその威勢は、そっくりそのまま毛利氏のものとなったのである。ときに元就71歳であった。