尼子家臣。越中守。尼子晴久・義久の2代に亘って仕えた。出雲国須佐高屋倉城主。
出自は高橋氏の庶流で、石見国邑智郡出羽の地名・本城を名字の地とする。
天文9年(1540)8月、尼子晴久が毛利元就の拠る安芸国郡山城を攻めた際(郡山城の戦い)に従軍しているが、翌天文10年(1541)1月に尼子勢が敗退した後、安芸・出雲・石見国の国人領主ら12名と共に大内義隆に帰属した。この情勢を受けて大内氏が天文11年(1542)に出雲国侵攻の軍勢を催すとこれに従軍したが、攻めあぐむ大内陣営より天文12年(1543)4月末に離脱して月山富田城に入城、このため大内勢は壊滅するに至った(月山富田城の戦い)。
猛将として名を知られ、晴久の命を受けて永禄元年(1558)9月には毛利勢を駆逐して石見国の大森銀山を奪取し、以後は石見国山吹城に拠って防衛にあたった。この大森銀山は莫大な収益をもたらすため尼子氏と毛利氏の間で争奪戦が激化し、永禄3年(1560)7月、永禄4年(1561)4月にも毛利勢の攻撃を受けたが撃退し、その後も毛利氏に反抗する石見国本明城(別称を音明城・乙明城・福屋城など)主・福屋隆兼を支援するなど、毛利氏の石見国平定を阻んでいる。
しかし毛利氏の威勢が増大し、逆に尼子氏が衰退に向かうと、永禄5年(1562)6月に至って出雲国での知行給与を条件に毛利氏に降る。このとき嫡男を人質として尼子氏の本拠である出雲国月山富田城に置き留めていたが、馬売りに仕立てた部下を月山富田城に入らせ、商品として連れてきた馬に嫡男を試し乗りをさせ、そのまま城外まで乗り出して脱出させるという詭計にて救出したという。
この常光の鞍替えによって毛利氏の石見国平定が成った。しかし去就を警戒され、同年11月5日に出雲国大原郡幡屋の毛利陣内において謀殺され、常光の子たちも殺害された。
この事件によってそれまで毛利氏に降っていた出雲国衆のうち、尼子氏に鞍替えする者が増加したという。