石見国の国人領主。福屋正兼の長子。石見国那賀郡本明(ほんみょう)城主。本明城の別称は福屋城・乙明城・音明城。
はじめ尼子氏に属していたが、尼子晴久が天文9年(1540)に毛利氏の居城である郡山城攻めに敗退したことなどを契機として、天文10年(1541)の暮れ頃には吉川興経・三吉広隆・多賀山通続・山内隆通・宮若狭守・出羽助盛・本城常光・三沢為清・三刀屋久祐・河津久家・宍道正隆・古志吉信ら安芸・備後・石見・出雲国の国人領主らと共に大内義隆に与するようになった。
天文20年(1551)に大内義隆が重臣の陶晴賢に滅ぼされたのちは毛利元就に属す。
永禄2年(1559)6月から毛利氏が石見国の川本温湯城の小笠原長雄を攻めた際には毛利方として行動しているが、降伏した小笠原氏に福屋氏旧領の井田・波積を与えて福屋氏には邇摩郡内で替地を宛行うという処遇に不満を持ち、毛利氏に叛意を募らせた。
永禄4年(1561)11月、尼子氏の支援を期待して毛利方吉川経安の拠る福光城を攻撃。しかしこの直後より毛利元就・吉川元春らによって支城群を攻略され、加えて翌永禄5年(1562)1月には毛利氏と尼子氏が和議(芸雲和談)を結んだため、尼子氏からの支援を得られないまま毛利勢の総攻撃を受けて2月6日には支城の川上松山城を攻略され、翌日には本明城が攻撃に晒されたが、戦意を失って城を捨てて逃亡した。
その後、出雲国に逃れて尼子氏を頼るも受け入れられず、ついには大和国に流浪して松永久秀を頼って信貴山城に入り、のちには蜂須賀家政に仕えたという。