三村家親(みむら・いえちか) ?〜1566

備中国の国人領主・三村宗親の子。三村親成の兄。修理亮・紀伊守。備中国成羽城主、のち松山城主。
知勇兼備の将と評され、天文2年(1533)には父祖の代よりの宿願であった備中国成羽郷の制圧を果たして勢力を拡張し、天文22年(1553)には備中国猿掛城主・庄為資と抗争し、のちに和睦して子・元祐を為資の後継者とした。
永禄4年(1561)には毛利元就と結び、尼子義久の勢力下にあった庄高資を破って備中国松山城を奪取して本拠とし、備中国の中心勢力となる。さらには備前国西域の岡山城・舟山城・中島城を傘下に収めて勢力を固めた。永禄8年(1565)5月には美作国への勢力拡大を目指し、美作国三星城に後藤勝基を攻撃。この三星城は宇喜多直家らの救援軍に阻まれて攻略はできなかったが、軍勢を転じて尼子氏に与す三浦貞勝の拠る美作国高田城を11月に落とし、美作国西域をも制圧した。
翌永禄9年(1566)、美作国に再度進撃。美作国久米郡穂村の興善寺に在陣中の2月5日、宇喜多直家の放った刺客によって暗殺された。