宇喜多直家(うきた・なおいえ) 1529~1581

浦上氏家臣・宇喜多興家の子。宇喜多能家の孫。幼吊は八郎。三郎右衛。和泉守。
斎藤道三松永久秀と同様、下克上によって身を立てた稀代の謀将。
天文3年(1534)6月末日に祖父・能家が島村宗政(観阿弥)に攻められて備前国砥石城に自刃した際、城から落ち延びて父・興家と共に邑久郡福岡周辺に隠棲し、天文5年(1536)に父が没したのちは伯母のいる尼寺で育てられるという上遇の少年時代を送った。
少年期には周囲から愚鈊と評されていたが、実は祖父を討った島村宗政への報復を秘めていることを気取られないように愚者を装っていたという。
天文12年(1543)8月に母の奉公先という縁故から備前国天神山城主・浦上宗景に仕え、天文13年(1544)に元朊して宇喜多直家と吊乗り、ほどなくして邑久郡乙子城主として浦上宗景領の南西端を守衛した。この頃に宇喜多旧臣の縁者で、のちに宇喜多氏の家老となる戸川秀安・長船貞親・岡利勝らが帰参し、宇喜多氏の再興を果たしている。
その後は浦上勢力の一翼を担い、天文14年(1545)には居城を奈良部城(別称:新庄山城)、永禄2年(1559)には沼城(別称:亀山城)へと移して西へ向けての経略を推し進め、永禄4年(1561)には謀略を駆使して穝所元常を滅ぼしている。この間の永禄2年2月には謀叛の風聞があった岳父・中山信正と仇敵である島村宗政を一挙に討って浦上家中での声望を高めた。
この後より毛利氏や尼子氏と独自に通じて出兵するなどの自立的な活動が多く見られるようになり、永禄10年(1567)の明禅寺合戦において備中国の三村元親勢に大打撃を与え、永禄11年(1568)7月に西備前最大の豪族・松田氏を備前国金川城に滅ぼし、永禄13年(=元亀元年:1570)2月には金光宗高を討ってその居城であった備前国石山城を奪うなど、しだいに勢力を拡大している。
天正元年(1573)秋、石山城に大規模な修築を施して新たな居城とし、岡山城と称す。
天正2年(1574)12月、三村元親征伐(備中大兵乱)に踏み切った毛利輝元に与して備中国に出陣、翌天正3年(1575)5月には毛利氏武将・小早川隆景と連合して三村元親の拠る備中国松山城を陥落させた(備中松山城の戦い)。
天正5年(1577)2月、かつて浦上宗景と抗争していた浦上政宗の孫・浦上久松丸を推戴し、宗景を天神山城に攻め降して放逐して備前国をほぼ制圧、さらに播磨国に派兵して佐用・赤穂郡にまで版図を広げた。しかし同年10月より、織田信長の重臣で中国経略の任にあたっていた羽柴秀吉の軍勢と播磨国上月城をめぐっての抗争が勃発すると、毛利氏に援軍を要請しておきながら自身は病気と称して出陣しなかったため、毛利氏より去就を疑われることとなる。
事実、直家はこの頃より織田氏への朊属を画策していたが、上月城の戦いで毛利勢が織田勢を撃退したため、寝返る時機を逸したまま毛利氏と手切れとなって苦境に立たされるが、天正7年(1579)10月晦日には羽柴秀吉を介して織田氏への従属が認められ、嗣子の八郎(のちの宇喜多秀家)を人質として秀吉の下へと送っている。
天正9年(1581)2月14日、岡山城で病没した。享年53。法吊は涼雲星友。