永禄9年(1566)2月、勢力拡張を目論んで美作国に侵攻した備中国松山城主・三村家親が、宇喜多直家の放った刺客によって暗殺された。この事態を受けて三村勢は一度は退却したが、弔い合戦を企てた三村五郎兵衛が5月に再進軍し、宇喜多勢は辛くもこれを撃退したが、ここに宇喜多氏と三村氏の抗争が激化することとなったのである。
この頃の直家は備前国沼城(亀山城)を本拠としていたが、美作国方面に備える前線拠点として同年の秋に備前国上道郡沢田村の山に城を築いた。この沢田村にはかつて明禅寺があったが廃寺となっており、その跡の山が明禅寺山と呼ばれていたため、この城を明禅寺城と称したのである。
しかし三村勢は永禄10年(1567)春の風雨の烈しい夜、この明禅寺城を攻め立てて宇喜多勢を駆逐し、自陣営の拠点として取り立てたのである。
沼城の前衛として築いた明禅寺城が三村氏の手に落ちたことは痛手であったが、直家はこのことをも利用して一計を策したのである。それは、近いうちに明禅寺城を攻めるとの情報を流し、城の後詰に現れるであろう三村勢を叩くという乾坤一擲のものであった。
直家は、明禅寺城の守将となっていた根矢与七郎と薬師寺弥七郎に使者を送って降伏を勧める反面で、これに応じなければ大軍を擁して攻め落とすであろうと通達した。
根矢と薬師寺はこの調略には応じなかったが、宇喜多勢が大軍を率いて攻め寄せられたら支えきれないとして援軍派遣を要請した。さらに直家は、内応の意を示していた備前国岡山城主・金光宗高を用いて三村一族の石川久智に明禅寺城への後詰を注進させたため、三村氏でも評議の結果に大軍を率いて明禅寺城の後詰に向かい、一挙に直家を討ち取ろうということに決したのである。
三村勢は総大将に家親の遺児で家督を継承していた三村元親、元親の姉婿である石川久智、元親の兄で庄氏の名跡を継承していた庄元祐らという陣立てで、2万余の軍勢で備前国に出陣したのである。
三村勢は軍勢を3手に分け、庄元祐率いる7千の右翼軍は先陣として富山城の南から春日神社を経て旭川を渡って三棹山から明禅寺城の後詰に向かい、石川久智の中軍5千は岡山城の北から旭川を渡って明禅寺城を攻める宇喜多勢を背後から挟撃にし、総大将の三村元親は左翼軍として8千の軍勢を率い、中島城の北から湯迫(ゆば)・四御神(しのごぜ)を経て、沼城を衝くという戦略であった。
対する宇喜多勢は5千の軍勢で沼城を発向すると軍勢を5段に分けて本陣を古都(こづ)に置き、先鋒隊で明禅寺城を攻めさせていたが、斥候より三村勢の陣容の情報がもたらされた。三村勢の出陣を知った直家は「直ちに明禅寺城を落とすことができれば備中勢(三村勢)を討ち破ること容易い」と檄を飛ばし、自らも馬に乗って疾駆して明禅寺城を攻めていた先手軍に合流、将兵を督戦して明禅寺城を陥落させたのである。
この後、直家は城を焼き払って軍勢を三棹山(操山)に布陣させた。
一方、明禅寺城の陥落を知らずに三棹山へ向かっていた三村勢の庄軍だったが、明禅寺城からの敗残兵と行き交って狼狽しているところに、三棹山から攻め下ってきた明石・戸川秀安・長船紀伊守・延原土佐守・宇喜多忠家らの軍勢による急襲を受けて突き破られて敗走、大将の庄元祐も討死を遂げた。
中軍の石川軍は原尾島村あたりで明禅寺城の陥落を知り、失望していたところに宇喜多勢の宇喜多基家・花房職之・花房正成・河本対馬らの攻撃を受けた。石川軍は劣勢であったがよく防戦して竹田村まで後退、ここで陣容を立て直して、備えを乱して追撃する宇喜多勢を迎撃して押し戻した。これによって逆に宇喜多勢が崩れかけたが、石川軍も兵力を損じていたため深追いはせず、撤退した。
総大将の三村元親率いる主力軍は直家の本拠である沼城に向けて進軍していたが、四御神あたりで明禅寺城の落城や庄軍・石川軍の壊滅を知った。そこで沼城攻めを断念し、直家と雌雄を決するべく進路を南に取ったのである。直家もこれを察知して高屋村に陣を進め、明石飛騨・岡剛介を前衛として備えた。
直家を父・家親の仇敵と憎悪する元親は軍勢を叱咤して直家の陣に総攻撃を敢行、この猛攻の前に明石・岡の陣も崩されはじめた。しかし、先に庄軍を破って引き揚げてきていた戸川・長船・延原らの軍勢が元親軍に横合いから衝きかかったため備えが乱れ、さらには直家も旗本を投入したため三村勢は挟撃を受けることとなり、総崩れとなった。
元親は討死覚悟で駆け入ろうとしたが家臣に諌められ、再起を期して本領へ退却した。
この合戦は『明禅寺崩れ』とも呼ばれ、5千の兵で2万の大軍を粉砕した直家一代の勝ち戦として名高い。三村勢の生還者は2割ほどであったといわれるほどの大打撃を与え、三村と宇喜多の勢力差を大きく覆すことになったのである。
なお、史料によっては『明禅寺』を『妙善寺』と記すものもあるが、これは誤りである。御野郡に妙善寺も実在していたことから、混同されたものであろう。
また、この合戦のあった具体的な月日も不詳であり、永禄10年の春としか伝わっていない。