三村元親(みむら・もとちか) ?〜1575

備中国の国人領主・三村家親の二男。庄元祐の弟。修理亮・備中守。備中国成羽城主、のちに松山城主。
父・家親が永禄9年(1566)2月に宇喜多直家の放った刺客によって殺害されると家督を継承したが、その間隙に松山城を庄高資によって奪われたため、成羽城を拠点とした。
永禄10年(1567)には宇喜多氏の撃滅を企てて備前国へ侵攻したが、明禅寺城付近で宇喜多勢の反撃に遭い、大敗を喫して備中国へ退いた(明禅寺合戦)。
この後は宇喜多直家や尼子勝久の圧迫を受けて衰退するが、元亀元年(1570)には毛利氏の援助を受け、かつて庄高資に奪われた松山城を奪回。また翌年には宇喜多氏に奪われていた備中国斎田(佐井田)城も、毛利氏武将・穂井田元清の支援を得て回復している。
しかし、毛利氏が仇敵である宇喜多氏と提携すると元親は織田信長と結び、毛利氏との関係を断って離反に及ぶ。だが、これに異議を唱えた叔父・三村親成が毛利陣営に逐電したため、天正2年(1574)11月より毛利氏から討伐を受けることになる(備中大兵乱)。
一族の拠る城を拠点として防戦に努めたがことごとく陥落させられ、孤城となった松山城も天正3年(1575)5月に小早川隆景の率いる軍勢によって攻略されると、城下の松連寺において翌月2日に自刃した(松山城の戦い)。