天文12年(1543)より備前国天神山城主・浦上宗景に仕えた宇喜多直家は、浦上領西域の乙子城主に任じられたのを皮切りに近隣勢力を従えて勢威を増し、乙子城から奈良部城(別称:新庄山城)、ついで永禄2年(1559)には沼城(別称:亀山城)へと拠点を移し、西へ向けて経略を推し進めていた。
他方、備前国の西に位置する備中国では国人領主の三村氏が急成長を遂げており、天文年間には三村家親が庄氏や石川氏といった古豪を従えて備中国の一大勢力となり、安芸国の毛利氏と結んで東の美作国や備前国への勢力拡張を目論んで合戦を重ねたが、三村家親の台頭を警戒した宇喜多直家が永禄9年(1566)の2月、刺客を放って美作国の陣に在った家親を殺害。ここに宇喜多氏と三村氏の緊張が高まったのである。
それ以前の直家は、あるときは毛利氏、またあるときは毛利氏と敵対関係にあった尼子氏と結ぶなど、情勢に応じて表裏を使い分けていたが、三村氏が毛利氏の支援を得ることを不利と悟り、毛利氏に和睦を申し入れた。毛利氏でも利害を評議したところ、宇喜多氏と結ぶことが得策と考えたため直家との和睦を受諾し、結果として三村氏との関係が疎遠になったのである。
ここを勝機と見た直家は、永禄10年(1567)の春に三村家親の後継・三村元親に乾坤一擲の勝負(明禅寺合戦)を仕掛けて大勝を得て三村氏の威勢を挫いたことにより、宇喜多氏と三村氏の均衡が崩れたのであった。
さらに直家はこの機に乗じて備中国に侵攻、撫川城(別称:芝場城・泥城)や斎田城を攻め取って三村氏を圧迫したが、永禄11年(1568)、尼子氏の再興を目指して但馬国で決起した尼子勝久・山中幸盛主従を支援したため毛利氏とは手切れとなり、毛利氏の軍勢が備中国に侵攻を開始する。これに際して三村氏は再び毛利氏の支援を取り付けてその麾下となり、永禄12年(1569)から翌年にかけての侵攻戦において備中国の諸城は毛利氏に属すに至ったのである。
毛利氏の支援によって息を吹き返した三村一族であったが、その内部では内訌が起こっていた。
当主の元親は、畿内での基盤を固めた織田信長と結んで勢力を広げることを画策していたが、家親の弟で元親の叔父にあたる三村親成は信長を信用できないとして、毛利氏との友好関係を再構築することを進言していた。しかし元親はこれを容れなかったため家中が分裂、天正2年(1574)の11月に親成が毛利陣営に逐電するという事態が起こったのである。
この頃の毛利氏と織田氏は、表面上は親善的な関係にあったが、水面下においては織田方が盛んに調略活動を行って毛利氏領国の撹乱を策謀していた。尼子勝久の決起がそうであり、この三村元親の離反もそうであった。
この処遇について毛利家中では意見が分かれたが、重臣の小早川隆景が親成を支持する意向を強く示して元親の討伐を決めると、翌閏11月には備中国へと出陣。また、毛利氏の庇護下にあった前将軍・足利義昭の斡旋などもあって毛利氏と和睦していた宇喜多勢もこれに呼応して、12月下旬に備中国へ向けて発向している。
備中国へ侵攻した毛利勢は12月晦日に三村政親が守る国吉城を陥落させ、年が明けて天正3年(1575)1月上旬には元親の弟・三村元範の拠る楪(ゆずりは)城を落とし、ついで鬼実(きのみ)城、元親の妹婿・石川久式の幸山城などをも降し、残るは三村元親の本拠・松山城と元親の妹婿・上月隆徳の拠る常山城のみとなった。
毛利・宇喜多の連合軍は常山城を包囲して松山城との連絡を断ったうえで、3月中旬より松山城の攻撃を開始。しかし城からも迎撃部隊を繰り出すなどして頑強に抵抗したため、陣を下げて長期戦の構えを取る一方で調略を進め、内部からの切り崩しを図ったのである。
これが功を奏し、5月20日に至って天神丸より内応者が出たことをきっかけとして、戦況は一挙に連合軍に傾く。その翌日には本城を扼す出丸も降伏勧告に応じるところとなり、本城は完全に孤立する。
ここに元親は自刃を覚悟するも、近臣に諌められて城からの脱出を図ることになったが、その逃避行において不運が重なったことから天命が尽きたと悟り、松山城下の松連寺に入って自刃した(備中松山城の戦い)。
また、松山落城後も抵抗を続けていた常山城も6月7日に陥落(常山城の戦い)、ここに三村勢力は滅亡し、備中国は毛利氏によって再び平定されたのである。