常山(つねやま)城の戦い

備前国児島郡常山城主・上月隆徳は備中国の有力領主・三村元親の妹を妻に迎えて三村氏に属していたが、その三村氏が分裂内訌を起こした。すなわち、三村氏の当主である元親は毛利氏と結んで圧迫してくる宇喜多直家に対抗するために織田信長の支援を得ることを望んだのに対し、元親の叔父・三村親成は毛利氏との関係を修復すべきと主張し、双方共に相容れなかったため親成が天正2年(1574)11月に出奔して毛利陣営に帰属するという事態が起こったのである。
三村親成より経緯を知らされた毛利氏重臣・小早川隆景は織田勢の進出を警戒して三村元親の討伐を決めると、宇喜多直家と呼応して備中国に侵攻した(備中大兵乱)。
天正2年の暮れから翌天正3年(1575)初頭にかけてこの毛利・宇喜多より攻撃を受けた三村方の諸城は陥落し、残るは常山城と元親の拠る松山城のみとなった。
連合軍はこの両城の連絡を断って攻め、天正3年5月下旬に松山城が陥落、元親が自刃したことによって戦国大名としての三村氏は滅びたのである(備中松山城の戦い)。

松山城が陥落したことによって常山城は孤立無援となり、家臣の中には四国に落ち延びて再起を図ることを勧める者もあったが、隆徳は「元親に毛利氏からの離反を勧めたのは自分であり、元親やその一族が滅びたというのにおめおめと生き永らえることができようか」と、頑としてこれを容れようとせず、不退転の覚悟で抗戦を続けたのである。城に残ったその兵は、わずか百人ほどであったという。
一方、松山城を陥落させた小早川勢は常山城に向けて進発し、6月4日には常山城の包囲網を布いた。小早川勢の本隊は山村に、その先鋒隊である浦宗勝隊3千は宇藤木に布陣した。また、この小早川勢には三村親成・親宣父子も4千3百ほどの軍勢を率いて従軍し、彦崎から迫川付近に布陣したともいわれる。
常山城への攻撃は6日の朝より行われたが、城方は寄せ手の軍勢を充分に引き付けておいて一斉に弓や鉄砲で狙い撃ちにしたので、小早川勢は多数の死傷者を出して攻めあぐね、その日は勝機を見出せないままに夕暮れを迎えることとなった。
明けて7日、小早川勢は再び常山城に迫った。城方も最期の酒宴を開いたのち、前日と同様に弓や鉄砲で抗戦したが、この日は頃合を見計らって城門を開いては小部隊が突撃を敢行し、浦隊を翻弄して攻め立てた。
また、隆徳の妻・鶴姫も具足に身を固め、兄・元親の仇に一矢報いんとばかりに侍女34人を従えて浦隊に斬り込んだ。城兵もこれに続き、総勢83人が討死覚悟で進み出て抗戦に及んだのである。この乱戦の中、鶴姫は浦宗勝を見つけると一騎打ちを申し出たが、宗勝は「女では武士の相手には成り難し」と体良く受け流したという。
しかし多勢に無勢で鶴姫隊もしだいに減っていき、大勢が決しつつあった。鶴姫は腰に帯びていた太刀を手にし、「これは当家重代、国平の名刀なり。秘蔵の太刀であるから身から離さず持っていたが、貴殿に進呈する。これで後生を弔って給われ」との言葉と太刀を残して城内に駆け戻り、自害したのである。
この鶴姫の自害と前後して城内では隆徳の義母、嫡男の高秀、妹や幼い子供が自害あるいは命を絶たれ、一族の死を見届けた隆徳も弟・高重を伴って本城に赴き、そこに据えられた大石に登って自刃。高重もその介錯を勤めたのち、自刃した。ここに常山城は陥落して反毛利勢力は滅亡し、毛利氏による備中国制圧が成ったのである。
常山城址には隆徳夫妻と、これに殉じた侍女34人の墓が残されている。