浦上宗景(うらがみ・むねかげ) ?〜?

浦上村宗の二男。浦上政宗の弟。通称は与二郎。内蔵助。備前国和気郡天神山城主。
父・村宗が享禄4年(1531)6月に細川高国とともに細川晴元らの軍勢と戦って敗死(天王寺の合戦)したのち、兄・政宗とともに播磨国室津城に拠ったと思われるが、のちに政宗と不和となって備前国和気郡の天神山に拠って自立を果たす。『備前軍記』ではこれを天文元年(1532)の事とするが、宗景も未だ幼少であったと思われるので、誤りであろう。
これによって浦上家中は分裂するが、宗景は家臣や被官の多くを味方につけて戦国大名化し、政宗を圧倒。天文12年(1543)にはかつての主筋にあたる赤松晴政と交戦し、天文22年(1553)には美作国の所領に侵入した尼子晴久の軍勢と干戈を交えるなど、備前国東域や美作国東域における支配を拡大していった。
しかし永禄年間の初期頃より家臣の宇喜多直家が備前国南西部で勢力を伸ばして自立の動きを見せており、美作国においては毛利氏の圧迫が著しく、窮した宗景は元亀2年(1571)、中国地方への進出を窺う織田信長を頼った。
信長より備前・播磨・美作国における所領の安堵を得たが、このことがかえって直家を刺激するところとなり、直家は宗景と絶って毛利氏と結ぶに至る。
天正5年(1577)2月、かつて刺客を放って殺害した浦上忠宗(兄・政宗の子)の子である浦上久松丸の仇を奉じるとして挙兵した直家に天神山城を攻略されて落ち延びた(天神山城の戦い)。
その後の消息は不詳であるが、一説には黒田孝高の庇護を受け、黒田氏の筑前国移封に際して随行して福岡で没したとも伝わる。