上月(こうづき)城の戦い

天正5年(1577)10月、羽柴秀吉織田信長の命を受けて播磨国に出陣し、姫路城に入った。そして備前国・美作国・播磨国の境に位置する要衝・上月城を攻めた。このときの上月城は毛利氏に属していた宇喜多直家の勢力範囲にあり、宇喜多勢に横槍を入れられながらも羽柴勢は上月城を陥落させた。城を守っていた赤松政範は12月3日に自刃し、ここに赤松氏は滅びたのである。
この落城に際して、城兵が政範の首を持参して降参を請うたが秀吉はこれを許さず、城内外の残党をことごとく捕えると男はその場で斬殺、非戦闘員である婦女子までもを見せしめとして備前・美作の国境まで数珠繋ぎに連行され、女子は磔刑、子供も串刺しにするという残忍極まりない処置を取らせたのである。また、上月城と同様に最後まで頑強に抵抗を続けた福原城でも攻略後に250人以上を斬首したという。
12月上旬、秀吉は麾下の兵を従えて根拠地としていた姫路へと引きあげた。そして上月城の城番として入ったのが尼子の旧臣・山中幸盛である。
年が明けた天正6年(1578)、幸盛はこれを尼子氏再興の好機と考え、秀吉の許可を受けたうえで京都から尼子勝久を上月城主として呼び寄せた。そのとき勝久の弟の通久や老臣も呼応して馳せ参じ、尼子残党の結集に気勢が上がったのである。
が、秀吉の軍勢が上月城から去ったあとに宇喜多直家の攻撃を受け、2月上旬に至ると幸盛は城を守りきれずに姫路へと退去してしまった。しかし上月城は毛利攻めにおいて重要な拠点となる城であり、手中に収めておく必要があった秀吉は、大軍で囲んで再びこの城を陥落させて奪い取ったのである。
これが3月のことであるから、半年足らずの間にこの上月城をめぐって3度もの争奪戦があったことになる。
秀吉は、上月城に再び尼子勝久主従を入れることにした。尼子氏が持っている打倒毛利・尼子再興の願望を、毛利討伐の材料に利用しようとしたのである。そして秀吉自身は別所長治の拠る三木城の本格的な攻略に取り掛かったのである。

尼子勝久の上月入城を知った毛利輝元は、ただちに吉川元春小早川隆景に命じ、3万の大軍をつけて手薄となった上月城の攻略に向かわせた。天正6年4月のことである。
そのとき秀吉はすでに三木城攻略の最中だったが、これを一時中断して上月城の救援へと向かった。
秀吉は5月4日に上月城東方の高倉山に陣を布いて毛利勢を牽制したが、1万の軍勢でしかなかった秀吉は、3万の毛利勢に囲まれた上月城に近づくことすらできない状態だったのである。
窮した秀吉は亀井茲矩に命じ、勝久に上月城からの脱出を勧めさせたが、勝久はそれに応じなかった。さらに、6月16日に秀吉が上洛して信長に援軍を要請したところ、信長は上月城の救援をやめ、ただちに三木城攻めに集中するように厳命を下したのである。
こうして、上月城は織田家、秀吉軍から見捨てられてしまったのである。
秀吉軍が高倉山の陣を撤去して三木城攻めに戻ったのが6月26日であり、万策尽き果てた上月城では7月3日に勝久が自刃、5日に落城した。ここに毛利氏と対抗し続けた尼子氏は滅亡し、毛利氏の力がさらに強大になったのである。
なお、勝久と共に上月城にあった山中幸盛は毛利方に捕らえられた。そして捕虜として毛利の本営に送られる途中、備中国の甲部川(高梁川)と成羽川の合流点である阿井の渡しというところで殺された。