尼子家臣。秋上綱平の子。通称は伊織介・庵介(いおりのすけ)。姓は「秋宅《と表記される場合もある。出雲国八束郡森山(守山)城に拠る。尼子十勇士のひとり。
父・綱平とともに尼子晴久・義久に仕え、『尼子氏分限帳』によれば備後国のうちで1万石の所領を給与されている。
永禄6年(1563)に尼子十旗の第1である出雲国白鹿城を攻めた際(白鹿城の戦い)には救援に赴くなど、各地に転戦した。また、永禄8年(1565)9月に山中幸盛と益田藤兼家臣・品川大膳(棫木狼介勝盛)が富田川中州で決闘した際、幸盛に助太刀して品川大膳を討ち取っている。
永禄9年(1566)11月に尼子義久が居城の出雲国月山富田城を開城して降伏する(月山富田城の戦い:その2)まで従い、永禄12年(1569)に尼子旧臣の山中幸盛・立原久綱らが尼子勝久を奉じて決起すると、即座にこれに協力して尼子氏の再興に尽力した。
同年7月には一手の軍勢を率いて毛利氏武将・天野隆重の守る月山富田城を攻めているが、隆重の謀略に乗せられて撃退された(月山富田城の戦い:その3)。
永禄13年(=元亀元年:1570)2月の布部山の合戦にも従軍しているが、同年5月には父・綱平と共に尼子氏を見限って毛利氏に降った。