清水宗治(しみず・むねはる) 1537〜1582

毛利家臣。通称は才太郎・長左衛門。
備中国清水城主だったが、備中国高松城主・石川久孝の娘を娶り、その麾下に属した。しかし永禄8年(1565)頃に久孝とその嗣子が相次いで没すると、その後継として長谷川掃部が高松城主となろうとしたが、宗治は掃部を討って高松城主となった。
のち、毛利氏の進出に伴って毛利氏武将・小早川隆景に属し、各地を転戦して武功を挙げた。
毛利勢力の最前線である高松城を守る宗治は天正8年(1580)、中国経略を推し進める羽柴秀吉より、備中一国を与えるので内応せよとの誘いを受けたが、「輝元が自分を信頼して国境の地を任せたのだから、その信義に背くわけにはいかない」といってこれを断る。しかし天正10年(1582)、秀吉の軍により居城を水攻めにされた(高松城の戦い)。
手も足も出なくなった宗治は、自分の命と引き換えに城兵の助命を嘆願。秀吉がこれを受け入れたため、高松城より舟で漕ぎ出し、船上で一差し舞い謡ったのちに自刃した。46歳。本能寺の変の直後のことだった。
「浮世をば今こそ渡れ武士(もののふ)の 名を高松の苔に残して」の辞世を残した。