長谷川秀一(はせがわ・ひでかず) ?〜1594

尾張国に生まれる。幼名は竹、通称は藤五郎。貞長と称す。従五位下・侍従。
若年の頃より織田信長に仕え、天正7年(1579)、浄土・日蓮両宗の間を調停しようとしたがならず、世に言う『安土争論』に及んだ。
天正8年(1580)、キリシタンに安土城下で敷地を与える際の奉行を務めた。
天正10年(1582)6月、徳川家康穴山信君(梅雪)の接待役となって和泉国の堺を案内しているときに本能寺の変の凶報に接し、家康らと共に桑名から小船に乗って熱田湊へ脱出、三河へと逃れた。
翌年、羽柴秀吉に属して近江国比田城主となる。
天正12年(1584)4月、小牧・長久手の合戦では敗戦を味わったが13年(1585)閏8月、越前国敦賀郡東郷城11万石に封ぜられた。
紀伊征伐にも軍功があり従五位下・侍従に任じられ、天正15年(1587)の九州征伐後に従五位下・侍従に叙位・任官し、同時に羽柴の姓を授けられて「羽柴東郷侍従」と呼ばれた。
天正20年(=文禄元年:1592)より始まる文禄の役には5千人の兵を率いて朝鮮へ渡海、晋州城の攻略戦に参加するなどしたが、文禄3年(1594)2月に彼の地で没した。