村上武吉(むらかみ・たけよし) 1533〜1604

瀬戸内海の能島を本拠として瀬戸内海中央の海域を支配した海賊・伊予村上水軍の頭領。伊予国能島城主。父は村上義忠。従五位下・掃部頭・大和守。
従兄弟の義益と争って村上宗家の家督を相続したのち、菊池武俊の一字を与えられて武吉と名乗る。
天文24年(=弘治元年:1555)の厳島の合戦においては陶晴賢の勧誘を拒否して兵力の劣る毛利元就に与し、毛利勢の勝利に大きく貢献した。その後も毛利氏との関係を深め、毛利氏に与する水軍衆として数々の海戦に活躍した。しかし元亀2年(1571)には備前国の浦上宗景や豊後国の大友宗麟らと気脈を通じて毛利氏の瀬戸内の制海権を脅かすなどしていたことから独立性を保っていたようであるが、そののちに毛利氏に従属するようになったとみられている。
天正10年(1582)、毛利氏より離反して織田氏に与した来島村上氏と交戦、これを破ってその所領を賦与された。
天正15年(1587)、小早川隆景の筑前国転封に従って能島を退去、筑前国加布里(かぶり)に居住したが、文禄年間には長門国大津郡加原、慶長元年(1596)頃からは安芸国竹原に居した。
文禄の役に際しては隆景に従って渡海した。
慶長5年(1600)、関ヶ原の役後に毛利氏の所領が削減されると周防国屋代島に移り、慶長9年(1604)8月22日に没した。72歳。法名は大仙寺覚甫元正。
能島城を実見した宣教師ルイス=フロイスは、武吉時代の能島村上氏を「日本最大の海賊」と評している。