羽柴秀勝(はしば・ひでかつ) 1569〜1592

三好吉房の二男。母は羽柴秀吉の姉・とも(日秀)。豊臣秀次の弟、羽柴秀保の兄にあたる。幼名を小吉。隻眼だったという。左近衛少将・中納言・参議。
秀吉の養子となった時期は不明だが、天正13年(1585)に病死した秀吉の養子・羽柴(於次)秀勝織田信長の実子)の遺領である丹波国亀山城を継いだ。
天正15年(1587)の九州征伐には5千の兵を率いて従軍し、戦後に知行の不足を訴えたため秀吉の怒りにふれて所領を没収されたが、間もなく蜂屋頼隆の遺領・越前国敦賀城5万石を与えられた。
天正18年(1590)の小田原征伐で武功を挙げ、関東へ移封した徳川家康の旧領のうち甲斐・信濃国を与えられて甲府に移ったが、翌天正19年(1591)年3月には美濃国の岐阜へ転封された。これは秀勝母のともが、秀勝を僻地に置くのは不憫であるとして秀吉に移封を懇願したためともいわれる。
また、この年の11月には参議に叙される。
天正20年(=文禄元年:1592)の文禄の役に出陣、3千の兵を率いて渡海したが、9月9日に唐島(巨済島)で病没した。24歳。