大掾清幹(だいじょう・きよもと) 1573~1590

大掾貞国の子。常陸国府中城主。常陸大掾であった平氏の末裔であることから大掾を姓とし、一族は常陸国南域に割拠して常陸南方館と呼ばれていた。
天正5年(1577)10月に父・貞国が没し、当時5歳であった清幹が家督を継ぐ。
佐竹氏が北条氏に対抗するために常陸・下野・北下総の反北条諸氏を糾合して結成した「東方之衆」と称される軍事同盟に参加し、天正6年(1578)の小川岱合戦に参陣し(ただし、清幹は幼少であったため家臣が代理として出陣している)、天正12年(1584)の沼尻の合戦にも出陣した。
天正13年(1585)頃より水戸城主の江戸重通と抗争に及んだが、この抗争は結城晴朝の仲介によって天正14年(1586)11月までに和議が結ばれた。しかしこの和睦は間もなく破られ、天正16年(1588)2月には再び江戸氏、さらには江戸氏に与した佐竹氏の侵攻を受け、同年4月末に主要拠点であった田余砦が陥落したことにより、降伏した。
天正18年(1590)の小田原征伐には自らは参陣せず、羽柴秀吉への取り成しを佐竹義宣に委任したとみられる。小田原征伐に参陣した佐竹氏は21万6千余貫文の所領を安堵されているが、この貫高はそれまでの佐竹氏の所領のみでは及ばないものであるため、江戸氏や大掾氏、鹿島氏ら与力領主の所領を含めたものと目される。
結果として大掾氏は不参による取り潰しとはならなかったが、同年12月22日に佐竹氏の攻撃を受け、応戦するも敗れて府中城下で自害した。享年18。法号は宗真。
翌年2月、大掾氏の一族諸氏も義宣に欺かれて太田城に招かれ、謀殺されている。