大掾慶幹の子。常陸国府中城主。
永禄5年(1562)頃に父・慶幹が没したことにより家督を継ぐ。
永禄6年(1563)2月、前年に結ばれた和議を破棄して攻勢に出た小田城主・小田氏治と三村で戦い敗れる。
永禄7年(1564)6月、貞国の姉または妹を後妻としていた太田城主・佐竹義昭が、小田氏との抗争の支援を名目として府中城に入部。しかし同年末には義昭の実弟・三郎(襲名して大掾昌幹、のちの小野崎義昌)を養子として家督を譲らされ、大掾氏の名跡を奪われた。
しかし義昭が翌永禄8年(1565)11月に没すると、佐竹氏に反感を募らせていた旧大掾氏家臣が永禄9年(1566)6月に昌幹を追放し、貞国が家督に復帰した。しかし反小田氏という同一の立場から、その後も佐竹氏と連携を続け、永禄12年(1569)10月の手這坂の合戦にも佐竹勢として参陣している。
天正5年(1577)10月に没した。生年は不詳だが、30代半ばであったと見られる。