佐竹義俊(さたけ・よしとし) 1420〜1477

常陸守護・佐竹義憲の嫡男。通称は五郎。初名を義従(よしより)。従五位下・伊予守・右京大夫。常陸国太田城主。
鎌倉公方・足利持氏と関東管領・上杉憲実の確執が深まりつつある永享9年(1437)、持氏から圧力を受けた父・義憲より家督を譲られて佐竹氏当主となるが、実権は義憲の手中にあったようである。
関東地方が公方(持氏)派と関東管領(憲実)派に分裂して抗争に及ぶこととなった永享の乱において佐竹氏は持氏陣営に与し、続く結城合戦においても持氏遺児の足利安王丸春王丸兄弟を擁立する結城氏朝に与し、上杉憲実やこれを支援する幕府軍と抗争した。
しかし義俊の弟・実定が憲実の養子となっていたため、結城合戦の終結後においても佐竹氏内部には対立がくすぶっており、享徳元年(1452)に実定によって太田城を奪われて追放された。
この後は佐竹氏庶流で義父にあたる大山常金の庇護を受けて孫根城に逼塞したが、寛正6年(1465)に実定が没したのち、太田城に復帰した。
応仁元年(1467)暮れに義憲が没して名実ともに佐竹氏当主となるも、それまで続いていた分裂抗争のため惣領権を強化できず、文明3年(1471)には父祖の代より佐竹氏嫡流に反発してきた山入氏の後裔・山入義知によって攻められたが、山入領の背後に位置する白川直朝の支援を受けてようやく凌いでいる。この見返りとして、義俊は白川氏に所領の一部を割譲しなければならなかった。
文明9年(1477)11月24日に没した。享年58。法名は実相院殿曜岳建晃大禅定門。