常陸守護・佐竹義憲の二男。佐竹義俊の弟。通称は六郎。
嘉吉〜文安(1441〜1449)年間の初期頃、関東管領職の引退を望む山内上杉憲実の養子となり、山内上杉氏当主に推された。実定の父・義憲は第11代関東管領の上杉憲定の子であることから、実定も上杉氏の血統であることになり、それを見込まれたのであろう。佐竹氏の通字である「義」が使われていない実定の名も、憲実の養子となった際に改名し、「実」は憲実から「定」は祖父で関東管領職に在った憲定の偏諱を受けたものと考えれば、憲実がこの実定を山内上杉氏当主、そして関東管領職に就けようと考えていたであろうことがうかがえる。
しかし山内上杉氏では重臣・長尾景仲の画策によって文安3年(1446)頃に上杉憲忠が当主に据えられたため、実定が上杉氏を継承することはなかった。
享徳元年(1452)頃に分裂抗争を起こして兄・義俊を佐竹氏本拠の常陸国太田城から追放し、代わって自らが入部して佐竹氏当主としての存立を図った。
寛正6年(1465)に死没したと見られ、それまでは太田城に在ったようである。