長尾景仲(ながお・かげなか) 1388?〜1463

山内上杉氏の重臣。通称は孫四郎。初名を景重。左衛門尉。文安4年(1447)より昌賢と号す。
『双林寺伝記』では嘉慶2年(1388)に鎌倉長尾氏・長尾房景の二男として生まれ、応永3年(1396)に長尾景守の娘婿となり、応永8年(1401)の景守死没を受けて家督を継いだとされるが、『長林寺長尾系図』では房景の弟である長尾伯耆守の子(庶子か)であり、叔父にあたる房景の養子となったとする。
応永23年(1416)の上杉禅秀の乱に際しては由比ガ浜に陣を置き、鎌倉公方・足利持氏の鎌倉退出を援けた。
永享9年(1437)には関東管領・山内上杉憲実の有力被官として名が見えており、永享10年(1438)8月に勃発した永享の乱においては、上野国への下向を決めた憲実に随行し、山内上杉氏の家宰・長尾忠政とともに上野国の国人領主らを率いて戦った。
永享12年(1440)3月から始まる結城合戦には、上杉憲信(性順)とともに上杉軍の先陣として出陣し、同年7月の武蔵国村岡河原の合戦では寡兵で一色伊予守が率いる大軍を破った。また、同年10月までには武蔵守護代の地位に就いている。
憲実は自身の子のうちで龍春丸(のちの上杉房顕)のみを越後守護の上杉氏に預けて幕府に出仕させ、他の子はすべて出家させて山内上杉氏の家督を継承させないつもりであったが、景仲は文安3年(1446)頃に憲実の反対を押し切って憲実の子・憲忠を山内上杉氏の家督に据え、自身は山内上杉氏の家宰となった。この憲忠は一説には文安4年(1447)9月、遅くとも文安5年(1448)11月までには関東管領に就任している。
また、景仲はこの時期には出家しており、昌賢と号している。出家した時期は不詳であるが、嘉吉2年(1442)5月から文安5年5月の間である。
この間の文安4年には空位となっていた鎌倉公方に持氏の遺児・足利成氏が迎えられて鎌倉府が再興されたが、成氏も憲忠も若年であったため、扇谷上杉氏の家宰・太田資清(道真)と提携して政治を主導した。しかし成氏が里見義実・結城成朝ら持氏旧臣の子孫を重用したため、再び上杉一派と公方派の対立が深まり、宝徳2年(1450)4月には景仲・資清らと成氏との抗争が起こる(江ノ島合戦)。
この抗争に敗北して山内上杉氏の家宰職を退いたが、享徳3年(1454)12月に憲忠や後任の家宰・長尾実景らが成氏に誅されたことをきっかけとして享徳の乱が始まると家宰に返り咲き、翌享徳4年(=康正元年:1455)1月には幕府の支援を取り付けて上野国から武蔵国へと進撃したが、成氏勢に迎撃されて大敗を喫し(分倍河原の合戦)、その後は常陸国小栗、下野国の天命・只木山、武蔵国の崎西などに拠って抵抗を続けたが、いずれも敗れて敗走を重ねた。
寛正2年(1461)4月には嫡子の長尾景信が山内上杉氏の家宰職に在ることが見えるので、これ以前に隠退したと思われる。
寛正4年(1463)8月26日に没した。法名は月澄院殿俊叟昌賢庵主。