分倍河原(ぶばいがわら)の合戦

享徳3年(1454)12月27日、鎌倉公方・足利成氏が関東管領・上杉憲忠を鎌倉西御門の邸に招き、謀殺した。この事件の背景には、父祖の代から続く鎌倉公方と関東管領の深い確執、さらには関東管領である上杉氏を通じての幕府からの圧迫があり、窮した成氏が上杉方に先制攻撃を仕掛けたものと見ることができる。
憲忠が謀殺されたことを知った扇谷上杉顕房長尾景仲らは報復のため、所領である上野・武蔵国から軍勢を率いて発向。対する成氏は南下してくる上杉勢を迎撃するため鎌倉を出陣し、武蔵国の国人領主らに参陣を要請しつつ武蔵国の府中へと進んだのである。

府中に侵攻した成氏は、高安寺に布陣。そして翌享徳4年(=康正元年:1455)1月21日と22日の2日間に亘って、この両軍は府中南の分倍河原で激突した。
この合戦における兵力は成氏勢が1千騎、上杉勢が2千騎といわれており、成氏に倍する兵力を擁して臨んだ上杉勢であったが、庁鼻和上杉憲信・犬懸上杉憲秋ら大将格の武将や上杉氏の重臣である大石房重らが敗れて戦死あるいは自刃、大将の上杉顕房までもが深手を負い、24日に入東郡の夜瀬で自刃するなど、散々に打ち破られる結果となった。
長尾景仲が辛うじて戦場から離脱し、上杉氏所領である常陸国小栗城へと敗走している。
また、この合戦と時をほぼ同じくして相模国島河原でも成氏派の軍勢と上杉氏の戦闘が行われており(島河原の合戦)、こちらでも成氏方が勝利した。この2つの勝ち戦に乗じて成氏勢は上杉勢を追走して北上し、2月には武蔵国村岡、3月3日には下総国古河に移り、のちにこの古河を本拠としたことから『古河公方』と呼ばれることになった。