上杉憲忠(うえすぎ・のりただ) 1433〜1454

関東管領・上杉憲実の長男。母は一色氏。幼名は龍若丸。「龍忠」と称したとする史料もあるが、これは僧籍にあったときの法名か。右京亮。関東管領。武蔵・上野守護。
永享10年(1438)からの永享の乱において、父・憲実が足利持氏を自刃させた自責の念から出家して伊豆国の国清寺に入った際、共に出家して伊豆国にあったが、憲実の後任として関東管領職にあった上杉清方が死没したのちの文安3年(1446)頃、山内上杉氏の家宰・長尾景仲らによって擁立されて山内上杉氏の家督となる。
憲実は龍春丸(のちの上杉房顕)を越後守護の上杉氏に託して幕府へ出仕させ、それ以外の男児はすべて出家させて山内上杉氏の家督を相続させない方針だったため憲忠の擁立には強硬に反対したが、同年に憲忠が武蔵守護に就任していることからも憲忠の家督継承は幕府にも認められ、やがては第16代の関東管領となった。この関東管領の就任時期は一説には文安4年(1447)9月、遅くとも文安5年(1448)11月以前のことである。
宝徳元年(1449)に幕命によって鎌倉公方として下向した足利成氏は、永享の乱において父・持氏が、永享12年(1440)からの結城合戦においては安王丸春王丸という2人の兄が憲実のために討たれたことを深く恨み、持氏に仕えた里見家基の子・義実や結城合戦の首謀者である結城氏朝の子・成朝らを重用するなど挑発的行動に出たためにこの両者の不和は決定的となり、関東の諸将も公方(成氏)派と関東管領(上杉氏)派の両極に別れて相反目するようになった。
この対立は長尾景仲が扇谷上杉氏の家宰・太田資清と謀って宝徳2年(1450)4月に成氏を襲撃するという軍事行動に発展したが(江ノ島合戦)、幕府の仲介もあって同年の夏には和睦している。
しかし根の深い対立は沈静化することなく、享徳3年(1454)12月27日、成氏の鎌倉西御門の邸に招かれ、結城成朝らの兵によって殺された。22歳。法名は興雲院長鈞道洪。
この憲忠の殺害事件が、この後30年以上に亘って続けられる享徳の乱勃発の引き金となった。