上杉清方(うえすぎ・きよかた) ?〜1445?

越後守護・上杉房方の末子(四男か)。第14代関東管領・上杉憲実の実弟。通称は十郎。兵庫頭。武蔵・上野守護。関東管領。上条上杉氏祖。
越後国刈羽郡上条に配されたことから上条上杉氏の祖となるが、永享の乱終息後の永享11年(1439)11月に兄・憲実が出家するに際してその名代に指名されて鎌倉に召喚され、山内上杉氏の家督と関東管領の職掌を継承した。
永享12年(1440)3月に足利安王丸春王丸兄弟が挙兵し、結城合戦が勃発。幕府より追討軍の総大将に任じられた清方は先陣として庁鼻和上杉憲信(性順)・長尾景仲を出陣させ、清方自身は4月19日より出陣し、翌年4月に結城城を陥落させた。
結城城の攻略後には、結城合戦において足利方に与した佐竹義憲や宍戸持重を討伐するため常陸国へと転戦し、7月頃には常陸国田中荘金田に布陣していたことが知られるが、同年6月に将軍・足利義教が横死したこと(嘉吉の変)で佐竹・宍戸氏への攻撃はうやむやになったようであり、嘉吉2年(1442)4月頃までには鎌倉に帰還したようである。
その後は鎌倉に在って関東管領としての政務を執っているが、嘉吉2年5月以降はその動向が不詳となる。文安2年(1445)または3年(1446)に自害したとも伝わるが、清方の菩提寺となった長泉寺が文安2年に越後国上条に建立されたという伝承があり、その前年の文安元年(1444)8月には憲実が山内上杉氏所領の分配を差配していることから、それ以前の死去とも推測される。法名は最勝院笑中道旦。