上杉房方(うえすぎ・ふさかた) 1367?〜1421

関東管領・山内上杉憲方の子(二男か)。上杉憲孝・憲定の兄弟。幼名は龍命丸。民部大輔。
伯父で越後守護職にあった上杉憲栄が康暦元:天授5年(1379)前後に隠居する際し、越後守護代・長尾高景によって越後守護に迎えられた。憲栄の越後守護としての終見が永和4:天授4年(1378)7月、房方の初見が康暦2:天授6年(1380)4月である。
守護への就任後は京都に在って室町幕府に仕え、3代将軍・足利義満や4代将軍・足利義持の信任を得て、応永7年(1400)には幕府の評定衆のひとりに加えられた。
自身は在京したため越後国の統治は守護代の長尾氏に委ねたが、その傍らで二男の頼方を白河荘山浦に、末子の清方を刈羽郡上条に配して越後国統治の基盤を強化した。とくに白河荘山浦は、強い独立性を示す揚北衆(阿賀野川以北の諸豪族)の勢力圏であり、統治政策において重要な地域である。また、三男の憲実は応永25年(1418)に山内上杉氏の家督を継承し、のちには関東管領となっている。
応永23年(1417)10月に勃発した上杉禅秀の乱に際し、幕府の命を受けて今川範政らとともに鎌倉公方・足利持氏を救援すべく関東に進発している。
応永28年(1421)11月10日、京都の居邸で病没。享年55。貞治5:正平21年(1366)生まれの享年54とする説もある。法名は光徳院殿大江常越。房方の没後は嫡男の上杉朝方が継ぐ。
のちにも幕府ならびに関東管領の山内上杉氏から厚い信任を得る越後守護家の基盤は、この房方によって築かれたといってもよい。