小山満泰の子。幼名は藤犬丸。通称は小四郎。下野守。下野守護。
応永30年(1423)12月、鎌倉公方・足利持氏から父・満泰の遺跡を相続することを認められている。
父の満泰は応永23年(1416)の上杉禅秀の乱や、禅秀の乱後に持氏が企図した禅秀与党(京都扶持衆)の追討などにおいて持氏(鎌倉府)方として活動しており、あとを継いだ持政も当初は持氏に従っていたとみられるが、永享10年(1438)の永享の乱に際しては関東管領・上杉憲実や幕府軍に味方し、同年9月に武蔵国笠原に出陣した際、留守にしていた祇園城を持氏方の那須氏らに攻め落されている。
永享12年(1440)の結城合戦に際しても上杉・幕府軍に与し、持氏の遺児である足利安王丸・春王丸兄弟が下総国の結城城に入城したことをいち早く幕府に報告するなどしており、これらの功績で結城合戦後に下野守護に任じられたとみられ、嘉吉元年(1441)9月には下野守護として名が見える。
文安4年(1447)に鎌倉府が再建されたのちは鎌倉公方(のちに古河公方)に就任した足利成氏に属してよく支え、享徳3年(1454)末に勃発した享徳の乱においては当初は成氏方に与し、長禄2年(1458)1月には成氏からの書状で「兄弟の契約を結びたい」ほどに恃みとされているが、長禄4年(=寛正元年:1460)頃より幕府将軍・足利義政より幕府方への鞍替えを勧誘されており、これに応じて文明3年(1471)5月頃には幕府方となったが、同年中に死去したとみられており、その名跡は梅犬丸(のちの小山成長)が継承した。
持政の子とされる氏郷は系図に名が見えるのみで活動の事績は見えず、氏郷の子と推測される虎犬丸も早世したと思われ、晩年まで持政が政務を執らざるを得なかったようである。