岩松家純(いわまつ・いえずみ) 1409〜1494

上野国の国人領主。岩松満純の子。新田義宗の孫にあたる。幼名は土用松丸。通称は太郎。初名を長純。治部大輔・三河守。大幢と号す。
父・満純は岩松満国から岩松氏嫡流を継承したが、応永23年(1416)の上杉禅秀の乱禅秀方に与同して鎌倉公方・足利持氏の軍勢と戦って敗死。家純はそのとき西国(美濃国とも)に落ち延びて隠遁していたが、やがて知遇を得て幕府将軍・足利義教に招かれたといい、この間に岩松氏の家督は家純の従兄弟にあたる岩松持国が継承している。
永享12年(1440)から翌年にかけての下総国結城合戦に際しては幕府軍として下向しているが、その後に京都に戻ったかは不詳である。
享徳3年(1454)末に勃発した鎌倉公方(のちに古河公方と称される)・足利成氏と上杉氏一族の抗争(享徳の乱)が深刻化し、長禄2年(1458)7月頃に新たな関東公方として足利政知が差し下されるに先だって岩松持国との折衝を持ち始め、同年9月には政知方(幕府・上杉氏方)へ帰順させることに成功している。
これによって岩松氏は政知方として一本化されるも、岩松家中は礼部(れいぶ:治部大輔の唐名)家と称される家純と京兆(きょうちょう:右京大夫の唐名)家の持国が分立・競合するところとなり、家純は寛正2年(1461)5月、持国父子が成氏方に内通したとしてこれを討ち、礼部家の優位を明らかにした。文明元年(1469)には新田荘に金山城を築いており、この頃までには新田荘の掌握ならびに岩松一族の統合をほぼ果たしたものと思われる。
文明8年(1476)の長尾景春の乱を契機として再び成氏に味方するようになったが、翌年5月に子・明純が上杉方へ奔り、その混乱の中で重臣の横瀬国繁の台頭を許し、岩松氏当主としての実権をしだいに失っていくようになった。
明応3年(1494)4月22日死去。享年86。