安富元家(やすとみ・もといえ) ?〜?

細川京兆家(管領家)の内衆で、室町幕府管領・細川政元の家宰。通称は新兵衛尉。筑後守。
文明11年(1479)12月に細川政元が丹波国で被官の一宮宮内大輔に拉致されると、同じく京兆家内衆の庄元資らとともに発向し、翌年3月にこれを討ち滅ぼしたが、その軍功をめぐって元資と不和になった。
文明16年(1484)11月、京都に土一揆が蜂起すると、政元の命を受けてこれを鎮圧している。
長享元年(1487)9月、政元に従って9代将軍・足利義尚による六角高頼征伐(鈎の陣)に出陣。この将軍親征は長享3年(=延徳元年:1489)3月に義尚が陣没し、10代将軍に就任した足利義稙(当時の名乗りは義材)が高頼を赦免したことで終結するも、間もなく両者は決裂し、義稙は再度の六角氏征伐を企てた。これに際して細川政元が延徳2年(1490)8月に近江守護に補任されているが、元家も近江守護代に任じられている。
同年3月に京都で土一揆が蜂起すると鎮圧し、また同年8月には経緯は不詳ながらも備中国で庄元資と抗争している。
足利義稙による第二次の六角氏征伐が延徳3年(1491)8月より始められたが、元家はこの幕府軍の主力として出陣し、翌延徳4年(=明応元年:1492)3月の愛知河原の合戦で六角方の軍勢を撃破する活躍を見せている。
同年秋に政元が近江守護の任を解かれると、元家も近江守護代を辞して帰京した。
明応2年(1493)4月に政元が足利義澄を新将軍に擁立して足利義稙の更迭を企図した際(明応の政変)、政元の命を受けて上原元秀とともに河内国に発向し、閏4月に畠山政長を正覚寺に攻め滅ぼした。
その後は修験道に耽るようになった政元の政務を代行し、永正3年(1506)には政元の養子となって阿波国から上洛した細川澄元を自邸に迎え入れている。
その後の動静は不明だが、永正4年(1507)6月に暗殺された政元の後継をめぐる細川澄元と細川澄之の争いにより、没落したようである。